2019年2月16日土曜日

「あみもの」一首評 投稿:藍野瑞希


アルフォートまず海を噛むわたしたち少しことばを使いすぎたね
 
   /toron*『ぼくのホワイトロリータ』(『あみもの』第十三号)



 奇跡的な歌だと思う。ぼくが改めて言うまでもなく。

 まずはこの歌を読み取っておこう。主体は女性。すぐ近くにいる(おそらく恋人の男性だと思う)親しい関係の人と何かをした後にアルフォートを食べている。そんな情景。

 少し、細部に目を向けてみる。
 まずは上句の「アルフォートまず海を噛む」だ。
 アルフォートのデザインをよく思い出してほしい。航海する帆船が描かれているが、海の部分の面積はそこまで大きくない。
 主体は、異様なまでに一口を小さくしてアルフォートを食べている。

 その理由はなぜか。答えは下句にある。
「少しことばを使いすぎたね」の部分だ。
 冒頭で触れたが、これは過去の回想だ。行為だろうか、口喧嘩だろうか、言葉を使いすぎてしまった。それが照れくさいのか、もしくは気まずいのか。
 でも、どちらであろうと「異様なまでに一口を小さくしてアルフォートを食べる」という動作に収斂している。
 と、こんな感じの情景だろう。

 次に、この歌を素晴らしいものにしている要素を説明したい。
 これは歌のパーツを分解するようなもので、もしかしたらこの歌の魅力を損ねてしまう可能性もある。「歌の世界が広がる評」とは真逆になるかもしれませんがご了承を。

 素晴らしい歌とは何か。人それぞれ意見はあるだろう。例えば「詩的表現が効果的な歌」「共感性の高い歌」「発想の豊かな歌」とか。
 どれも素晴らしい条件には違いないけど、ぼくは「主体の目線がブレてない歌」もそうだと思う。

 例えばこれとか。

  したあとの朝日はだるい  自転車に撤去予告の赤紙は揺れ / 岡崎裕美子

 深く掘り下げることはここではしないけど、主体の感じていることを上の句で、主体が見ているもの、上句で表現されている主体が感じていることによって注意を払って見てしまうものを下句で描いている。

 toron*さんの歌も、この種類の名歌だ。
 下句では主体の状況が表現されている。気まずさ、もしくは照れを抱えた状況が。
 そして上句は主体の視線だ。主体はアルフォートの絵柄の海を注視している。いや、注視してしまっている。近くにいる人を見るのは少し気まずく、目のやり場が手元のアルフォートしかないから。


 次に、歌に使われている言葉が掻き立てるイメージについて。
 ぼくが注目したのは「まず海を噛む」の部分。これは、もちろん実景だ。
 しかし「海」という言葉はこのアルフォート以外にも暗示するイメージがある。

 例えばこの歌とか。

  海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり/寺山修司

 多くの人が持っているイメージとして、海には「語れないほど大きく深い」というものがある。それはこの寺山の歌でも表現されている。

 toron*さんの歌はこのイメージを巧みに利用している。「海を噛む」という動作の上句が想起させるイメージが、「少しことばを使いすぎたね」の下句とオーバーラップするのだ。

 ぼくは冒頭で「奇跡的な歌」と書いた。言葉の深層にあるイメージを的確に掬いとること、そしてそれを31文字の定型に収めることができる実力は紛れもなく非凡なものだと思う。toron*さんがこれから詠む歌を楽しみにしています。


評:藍野瑞希(Twitter:@LIER_aino)

0 件のコメント:

コメントを投稿