2019年2月27日水曜日

「あみもの」一首評 投稿:満島せしん 2


はしった、ゆきんなか、ぜんりょくで、だけで、こんなあついんか、からだんなか!

   /多賀盛剛『冬』(『あみもの』第十四号)




 「冬」という連作の、最後の歌だ。力強い歌である。読点の多さ、ひらがなだけの表記から、全力で駆け抜けた後の高揚、息遣い、爽快感、心地良い疲労感が伝わってくる。冷たい雪の中、熱く滾る己の肉体。生きている、という確かな手応えがある。この歌だけでも充分、体温や生への喜びが伝わってくる。
 しかし、その喜びに至るまでが、非常に巧みに描かれているところがこの連作の凄みである。いくつか抜粋して読んでいきたい。

  いつかゆき、ふらへんくなって、それすらも、いつからやったか、わすれてまいそう。

 一首目、大阪弁のやわらかな訛りとひらがなで、都市部における雪のイレギュラーさを提示する。温暖化が進んで、都市部ではなかなか雪を見なくなった。以前大阪の街で雪を見たのはいつだっただろうか。わたしは思い出せない。冬の風物詩である雪を見ることの少ない都市部の人間にとって、雪は日常と少し離れたところにある。

  あのこども、いぬのなでかたやさしかった。そうされてきて、いきてきたみたい。

 打って変わって、二首目に描かれるのは、日常の風景である。犬を優しそうに撫でる子供。子供はその優しさを誰かから受けて、知って、だから与えることができているのだろう。優しさが優しさを生むのだ。そんな人生の営みを切り取った秀歌である。
 一方で、この歌は自分自身にも問いかけているように感じる。自分はそんな優しさをきちんと受けて、きちんと誰かに与えることができているだろうか?そうされて、同じように与えて、生きてきただろうか?感情の発露はないものの、そんなさみしい自問自答でふと立ち止まる主体が想像される。

  こんかいも、おわかれのひにそのひとの、おわかれのかお、はじめてしった。

 四首目も、人生の営みを切り取った歌だ。人生において、別れは何度でもやってくる。恋人との別れ、友人との別れ、家族との別れ。様々な別れがある。それぞれに、それぞれの顔がある。涙もあるかもしれないし、笑顔もあるかもしれない。でも、別れる、ということがわかっていて別れる時、そこには特別な感慨がある。今回「も」そうだったのだろう。どんな関係で、どんな別れ方をしたかはわからない。でも、特別な表情を知ることは、相手を新しく知ることだ。もう交わることはないのに、そのひとを改めて知ってしまうということだ。なんだかもったいないし、さみしい営みである。

 ここまでは、日常においてふと立ち止まってしまいたくなる、人生のさみしい営みがやわらかなタッチで描かれている。しかし、ここから徐々に、様相が変わってくる。

  あ、ぼくやん、こっからあんなとおくまでのびたあたまのかげもぼくやん。

「あ、」という気付きで始まる二首が続く。六首目を引いた。これまでの気付きが、どこか立ち止まってしまいたくなるようなさみしさを帯びていたのに対し、こちらは前向きなエネルギーを感じる。自分自身は、肉体は、揺るぎなくただそこにあるが、影は違う。日が陰ってくると、影が伸びてくる。頭の影は、自分の前に横たわり、遠くへと伸びている。自分の意思とは関係なくそうなるとはいえ、それは確かに自分のものである。遠くでも、たとえ影だけであっても、自分は届くことができる。できるのだ。

 ここから、歌はいっきに加速していく。

  ほら、いきもめっちゃしろい。みせたかった、ほら、こんなしろいって、めのまえで!

 七首目。恐らく、おわかれした誰かへの呼びかけである。「いきも」、ということは、きっとそこにはしろい別の何かがある。雪だ。一首目でイレギュラーとして描かれていた、雪が、ここで現れる。白い雪。白い息。都市部ではなかなか見られなくなった、まさしく冬の景色だ。それを見せたかった。冬の喜びを分かち合いたかった。もう交わることのない、お別れの顔を知ってしまった、誰か。遠くの、誰か。でも、届くかもしれない、と主体は思っている。影だけでも、遠くに行ける自分を知っている主体は、だからこそ呼びかけている。誰かに。

  ゆきふむん、たのしい、なんさいでもって、いいきれるほど、もっといきたい!

 九首目。更に歌は加速する。先程まで立ち止まっていた主体はそこにはない。ただ、雪を踏み、前に進んでいく主体が眼に浮かぶ。人生は進んでいく。優しさも、さみしさも、別れも飲み込んで。ただ、今は楽しい。そしてその楽しみは、いつかの冬に、きっとまた訪れるだろう。いつかはわからなくとも。だから、生きたいのだ。

 この生きたい!という叫びの後、連作の最後に、冒頭の歌が現れる。今一度、引く。

  はしった、ゆきんなか、ぜんりょくで、だけで、こんなあついんか、からだんなか!

 歌は最高速度に達し、すべてを振り切る。人生の営みなど関係ない。ただ、熱い体だけが、ここにある。雪を好きなだけ踏んで、全力で走って、今を躍動する自分の体。生きている。直接的な表現はない。しかし、体全部が、生きたい!と叫んでいる。
 この歌は、生きることへの、生きていく自分への賛歌だ。その賛美は、加速する連作の最後で、わたしたち読者を容赦なく巻き込む。人生の営みの中、何度でも立ち止まってきた、またこれからも立ち止まるであろう、わたしたちを鼓舞する。もっと生きようと。そう思わせる力が、この連作には確かにある。

 生きようではないか。なあ。


評:満島せしん(Twitter:@seshinmitsushma)

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