2019年2月17日日曜日
「あみもの」一首評 投稿:御殿山みなみ
気づくのが遅くなったが「いいわよ」と言う現実の女性はいない
/多賀盛剛『年男』(『あみもの』第四号)
いや、いる。
絶対にいるやろ。そう思って自分の周囲の女性を思い浮かべた。
おらんかった。
「現実の」がうまかった。だいたいドラマか、小説のキャラクターばかりが浮かんだ。なんなら大学時代に自分で書いていた小説に出てくる女性が、「いいわよ」と言っていた。
怖くなってきたので母親に連絡した。筆者は(そして多賀氏も)関西在住なので「いいわよ」という人(これを「いいわよさん」と呼ぶことにする)と触れる機会が少ないかもしれないと思ったのだ。筆者の母親は関東出身である。
その結果、母親の知り合いに、いいわよさんがいた。そのいいわよさんは結構年配の女性だという。今の若いひとには、いいわよさんはいないのかもしれない。しかし母親の知り合いのいいわよさんは現実の女性なので、現実にいいわよさんは存在する。
よかった。ありがとう知らないいいわよさん。あなたのおかげで筆者の恐怖はやわらぎました。
そこまできて、この歌がとても巧妙な思考の歌であることに気づいた。
読み手の反応としては、筆者の(一首評の文体としてはなはだ不適切なのは承知ではあるが)「いや、いる。」という反応が一般的なのではないかと思う。まずこの主張に突っ込む。その後、筆者のように反証に時間がかかるのか、すぐに反例を持ってこれるのか、はたまた持ってこれずに歌の前に敗北するのかは読み手次第だろうが、読者はひとまず、いいわよさんと戦わされる。
そしてこの主張は歌の主体にとって分が悪いものだ。こうして筆者も現実のいいわよさんを持ってこれたし、他の読み手からも同じ反論を受けやすいだろう。いいわよさんが現実に少ないことは多くの人に受け入れられるであろうが、この歌は「いない」と言ってしまっている。いるのに。
しかし、そんな主張を打ち破れたからといって、この歌の魅力が褪せるだろうか。そうは思わない。それを救っているのが、「気づくのが遅くなったが」という主体の感慨である。
主体にとって、現実のいいわよさんがいない問題は今まで気づきもしなかったことなのだ。連作タイトルは年男。それも連作一首目のつくりからすれば24歳かどうかもあやしい。36歳以上である可能性が高い主体だ。その間、主体の前にいいわよさんは現れなかった。そして、フィクションではよく出てくるいいわよさんを思い出し、この歌をつくるに至ったのである。
そして、この感慨については、いいわよさんの現存を証明できた読み手にも刺さる。筆者は現在28歳だ。なんとか親の力を借りていいわよさんの存在を証明できたが、確かにいいわよさんが現存するかどうかなんてこと、考えたことがなかった。
つまりこの歌は、いいわよさんが現存するかどうか問題にツッコミを集めておきながら、その問題提起をしてこなかった読み手を食っているのである。仮にリアルいいわよさんを証明できても、この歌に完全に勝つことはできない。膝をつくしかない。この歌に勝利できるひとというのは、いいわよさんが現実にはほとんどいないことに気づきながら、現実のいいわよさんも知っているひとに限られる。
さらに恐ろしいのは、この思想をいったんもってしまった以上、我々は沈黙せねばリアルいいわよさんをさらに減らしてしまうことになるのだ。仮に筆者がどこかの場所で、仲のよい女性に対して「現実にいいわよっていう女の人っておらんやんな」と言ったとしよう。その女性は仲がいいわけだし、どこかで茶目っ気を効かせて「いいわよ」と言ってくれるかもしれない。しかしそれではだめだ。これは天然いいわよさんではない。歌の思想によって生み出されてしまった人工いいわよさんだ。そしていったん人工いいわよさんになってしまった女性が、天然いいわよさんになることは、ありえない。
お分かりいただけただろうか。この歌は、己の実感が仮に間違っていようとも、巧妙な伝え方をもって実感の全部とは言わない一部をねじ込ませてくる力に満ちている。
連作中の多賀氏の歌は、そのような過去からの実感を持ちこしている今、のようなものをよくとらえている。少し前に触れた「連作一首目」も引用しておくと、
ヤクルトを1リットルで飲みたいと20年前から思ってる/多賀盛剛
この歌も「いや、飲めよ」というツッコミは置いておいて、長年生きてきて年男として今、残っている実感を形にしているものだと言える。こちらは掲出歌とは逆で、普通の人が持たないような欲望を示し、言外にそのできなさを含ませている。いいわよさんの歌は、いいわよさんの不在を主張しつつ、その現存性を言外に含ませている。
多賀氏の生み出す短歌はおおむね実感が素朴だ。それでいてその素朴さは我々が気づかない視点から切り込んでくるために、シンプルに刺さってくる。今評にて引用した歌は『あみもの』第四号と一年近く前の歌になるが、氏はこの後、より口語的な表現を取り入れた歌作を目指されているのではないかと感じている。
声でーへんときでもくちぶえ吹けるって気づいてからがめっちゃたのしい/多賀盛剛『夏』(『あみもの』第十号)
より関西の言語感を大事にしつつ、それでも見たこと感じたことの素朴さを原点として繰り広げられる氏の歌に、筆者はうならされてばかりいる。
評:御殿山みなみ(Twitter:@1ookat2)
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