2019年1月4日金曜日

「あみもの」一首評 投稿:堂那灼風


恋をしたあの日世界に稲妻が落ちた嵐が来るよ おやすみ

   /雨田夏夜『少女信仰失恋心中』(『あみもの 第十号』)


 雷に打たれたように恋をする人間ばかりの世の中だ。この歌を新しい作品として成り立たせているのは「嵐が来るよ」以降の表現である。
 劇的に恋が始まり、今は嵐の到来を予感している。嵐のさなかにあるわけではなく、こののちなんらかの波乱があることを予見しているのだ。この人の世界に稲妻は落ちたのだろうから、嵐が来るのもおそらくこの人の世界、この人の心にだと思われる。それがどのような波乱なのかは一切示されないが、この人には嵐に立ち向かう覚悟がある。
 結句「おやすみ」は恋の相手への呼びかけだろうか。まだ波乱に気付かない(と、この人は考えているはずの)相手へ、もはや平穏な恋ではなくなったことを告げる。この恋が一方的なものであれ双方的なものであれ、一方当事者の心境は状況や関係に変化をもたらす。この人を襲う嵐はこの人を中心とした世界そのものを揺るがす。この人にはそれが見えていて、そのくせ抗おうとはしない。相手へ警告する素振りは見せても具体的な方策は示さないし、そもそもこの事実を伝えたのかどうかさえ怪しい。内心の独白としての形態が一貫しているから、いかにも独りよがりな言い草にも見える。しかし恋とは、ただ自分が相手を好いている状態を恋と呼ぶのなら、それは端から自分だけのものでありうる。
 この恋が終わるかどうかは嵐が去ったあとの話である。仮に終わってしまっても、この人は嵐がすべて薙ぎ払って行ったのだと見なしてしまいそうだ。嵐の原因を自分に求めているのだとしても、それはそういうものとして受け入れて(諦めて?)しまっている雰囲気がある。だから「嵐が来る」ことは決定事項として語られるし、自分も相手も嵐を待ちながらいつも通り生きるしかないことになっている。
 ところでこの人の世界はまるで恋をしてからずっと荒天であるようにも見える。「稲妻が落ち」てから今までの描写をすっぱり切り捨ててしまったために、幸せな期間があったのかどうか判然としない。恋や相手への向かい方に特徴がある歌だが、そこに絡む感情が見えにくいのは難点かもしれない。呼びかけからは感情の存在がうかがわれるものの、それに迫る手がかりはない。描写しなかったのではなく描写できなかっただけではないかという疑いは作品を台無しにするし、固有の心持ちを描くには前半の定型句じみた言い回しは悪手だったとも言えるだろう。


評:堂那灼風(Twitter:@shakufur)

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