2019年3月30日土曜日

「あみもの」一首評 投稿:御殿山みなみ 2


離れたらそれはひかりでもう二度と弟を呼び捨てにできない

   /平出奔『はやぶさ』(『あみもの』第十一号)




 二歳年下の弟がいる。弟なので、呼び捨てにしている。
 その弟は、僕のことを呼び捨てにしている。生まれてこの方、お兄ちゃんや兄貴などと呼ばれたためしがない。
 僕はそれをなんの気兼ねもなく許しているが、まったく敬称を使われないことに関しては、変だなあと思うことはある。自分が弟を呼び捨てにすることは、当たり前だと思っているくせに。

 掲出歌の下の句「もう二度と弟を呼び捨てにできない」の心情の強度がとても強い。呼び捨てにできないということは、さん付けくん付けするということだ。弟を。
 けれど、どうしてここに「うっ」と来てしまうのだろう。そこに、兄という立場のよくわからない特権性がある。
 儒教的な思想は今の日本にもしっかり根付いているから、兄弟がいたときに下が上をうやまう、ということは悪いことではないし、むしろよいこととされているだろう。その考えで行けば、兄は兄でいるだけで弟からうやまわれうるし、もちろん裏返しに兄らしい立ち振る舞いを求められる。兄なんだから、弟より(少なくとも、人生の先を行っているぶんくらいは)優れておきましょう、という観念がそこにはある。
 きっと、この歌の主体も、それを強く持っていると思う。

 上の句の「離れたらそれはひかりで」はやや抽象的で、いくつかの読み筋があるかもしれないが、単純に家族という共同体から離れた、と読んだ。就職しての一人暮らしなのか、自ら家を出ていったのかはともかく、家族を離れてしまった。自分以外の家族はまだまとまっているのだろう。それが、光のように感じられているのではないか。
 そして家族からの脱却は、先述の兄弟関係からの離脱も含んでいる。きっと主体は、家族関係にいるときは、兄であるという理由だけで弟を呼び捨てにできていたのだ。家族制度の保証の範囲内だけで。それが、離れたとたんに、兄弟関係は対等になり、お互いの人間力を純粋に比較できるようになってしまう。
 主体にとっては残念なことに、弟に負けてしまったのだろう。その比較において。

 離れ「たら」ひかりだったという表現がよい。自分がそこにいたときは、それがひかりだとは気づかなかったのだろう。当たり前の関係だったのだ。そして離れてからひかりが向こう側にあるということも、自身の敗残をうまく示している。連作中、ほかの家族に言及する歌はいくつかあり、

  夕空に煙は溶けて父さんを呼びたいように呼んでいいんだ
  母さんが死んだ気がする(見えるかい? 雲の形が鎖みたいだ)

 それぞれ、掲出歌と同じく家族という共同体を抜けてからの感慨になっている。両親に関してはまた別の複雑な感情が見えるが、弟については、コンプレックスになるのかもあやしい、純粋な敗北感を覚えているかのようだ。

  陰毛が伸びるはやさではやぶさを跳べなくなってく日々だったこと

 連作タイトルにもある『はやぶさ』は、縄跳びの技のことだろう。二重跳びの片方をクロス跳びにして、一回の跳躍であたかもマルとバツを同時に行うような技。物理的にも心理的にも、成長とともに跳ばなくなっていく縄跳びだ。
 そういう、成長に反して理想から遠ざかっていく、弱くなっていく自分を認識しつつ、弟のことを呼び捨てにできないひかりだと感じる。これはこれでひとつの家族愛なのかもしれない。

 僕には二歳年下の弟がいる。身内を褒めるようで恐縮だが、とても優秀な弟だ。この先社会的な立場は逆転するだろうし、収入も勝てなくなってくるだろう。
 僕は兄であるということを根拠に、この先彼を呼び捨てにできるだろうか。
 絶対にできる。そんなことを気にする必要はない。
 でも、ほんとうに? 掲出歌を読むと、そこがちょっとだけ揺らいだ。
 ちょっとでも揺らがされたことに、恐ろしさを覚えた。


評:御殿山みなみ(Twitter:@1ookat2)

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