2019年4月7日日曜日

「あみもの」一首評 投稿:中牟田政也


にんげんが依存している心臓の動かし方を教えられない

   /桜枝巧『生きるための練習』(『あみもの』第十五号)




 俺はいつ、命が芽生えたのか。俺の心臓は、いつ、動き始めたのか。
 俺の心臓を動かしたのは、誰だ?母親か?俺は、母親だったのか?だったら、俺の心臓は、俺の心臓なのか?
 俺の時間は、いつ始まったのか?俺の心臓が、動き始めた時なのか?それとも、俺と母親が分離した時、始まったのか?
 俺の心臓が動き始めた時、俺の時間が始まったとしたら。俺の時間は、母親が始めたのか。
 俺が母親と分離した時、俺の時間が始まったとしたら。俺の時間は、医者が始めたのか。
 にんげんというものは、少なくとも、心臓が止まれば、命は終わるらしい。
 にんげんは、心臓に依存している。心臓が動くことで、俺は生きている。
 俺の心臓は、俺の体の中にある。他のどこにもない。だったら、俺の心臓は、俺のものだ。
 俺のものなのに、その始め方も、終わらせ方も、俺は知らない。俺は、生き方を知らないで、生まれてきた。
 教師とは、何をする仕事なのか。
 生き方を教える、なんて大層なことは言わない。俺は神ではないし、俺も知らないから。
 俺も、生徒も、その親も、そのまた親も、うちに心臓を抱えた存在。いのちあるもの。
 俺はこれから、いったいいくつのいのちと関わっていくのか?どうやって?
 俺が、教師になるのか?


評:中牟田政也(Twitter:@masaya_nakamuta)

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