2019年1月4日金曜日
「あみもの」一首評 投稿:あひるだんさー
戦友がバズった南方海域の海の青さを撮ったビデオで /藍野瑞希『第参次世界大戦に於ける或る将校の記録』(『あみもの 第十二号』)
心せよ。天才が出現した。 本連作は、近未来の南方海域(具体的な場所に対する言及はないが、おそらく太平洋戦争における島嶼部での戦争が下敷きになっているのではないか)における戦争をテーマとした一連である。 戦争詠は難しい。悲惨な描写と口当たりのよい反戦の言葉を並べれば、出来はともかく歌にはなってしまうし、なおかつそれを正面から批判することが難しい。筆者も戦争詠で連作を作った経験があるが、この点はかなり苦労した部分である。 また、実際の戦闘行為を描くことに関するリアリティーの強度は、やはり体験したことがある人が作る歌に較べると、体験していない世代のそれは弱さを感じることが多い。実際に阪神・淡路大震災や東日本大震災を経験した人たちが作る震災詠と、そうでない人たちが作る震災詠に差を感じてしまうように。 しかしながら、戦争を知らない世代が作った戦争詠も見事なものが多い。一昨年の短歌研究新人賞の候補作となった、ユキノ進氏の「弔砲と敬礼」は、近未来の東京で勃発した内戦をドキュメンタリータッチで描いていて鋭い。また、1998年に同新人賞の候補となった高島裕氏の「首都赤変」は、同じく都市を舞台として幻想的ともいえる戦闘のさまを作り上げている。 さて今回の連作であるが、これもそうした近未来の戦争を題材とした一連のひとつとして位置づけられよう。しかし本作は上記したふたつの連作と競べると、次のふたつの点で異なっている。 まずひとつは、舞台が都市ではなく南方海域であること。つまり、太平洋戦争をふまえた上で、新たに未来の虚構の戦争を作り上げている点だ。これは連作に重みを加えると同時に、新鮮さをもたらしている。 つぎに、ユーモラスな視点が一貫して存在することだ。実際の戦闘の合間に戦争ゲームをするのは、ブラックユーモアそのものであるし、連作の最後の歌は悲惨きわまりないが、そこに記されたメッセージは、むしろ自虐みさえ感じられる。 さて、それらを踏まえた上でこの歌を見てみよう。歌意としては、まさに歌を読めば容易に理解できるものである。しかし、「戦友がバズった」ことを知るのは、当然SNS上でのことであろう。であれば、主体は戦友がいまも生きているかどうか、知ることはできないであろう。生きている可能性はあるが、同時にこの投稿の直後に戦死したかもしれない。それこそ、この連作の2首めのように、これが最後の投稿になったかもしれないのだ。 しかしそれ以上に、主体と戦友が「海の青さを撮ったビデオ」を通して、その瞬間にたしかな友情を感じとることができたのではないか。つまり、ひとつの青春詠として読むことも可能なのだ。また、この歌の中心が最後の「青さ」になっていることにも注目すべきであろう。この歌ほど、過去の虚構の戦争詠の中に「色彩」や「友情」を鮮やかに詠んだものはなかった。あぐで戦争や都市の無機質さや、乾いた感覚が前面に出ていた。この歌とこの連作は、見事に過去の歌たちを乗り越えてみせた。 その一方で、不満点があることは否定しない。主体を何者とするのか、という位置づけや舞台が明確に設定されていないため、読みがぶれることや作者が主眼をどこに置いているのかが明瞭でないこと、また今回取り上げた一首は視点の軽妙さが下士官のそれに感じられ、連作のタイトルが将校となっていることを踏まえると、矛盾した感があることは否めない。 そうした課題や疑問点はありつつも、非常に素晴らしい連作に仕上がっている。できれば、二十首、三十首の連作単位で読みたい。今後の藍野さんの歌が楽しみだ。 繰り返す。天才が出現した。
評:あひるだんさー(Twitter:@Jl9Szg7QZVpK8Uk)
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